【書評・要約】幸せになる勇気-岸見一郎【マインドマップ紹介】

「嫌われる勇気」は読んだけど幸せになる勇気は読んでいないという人も多いのではないでしょうか?

嫌われる勇気を一年ぶりに読み直したついでに幸せになる勇気も読み直してマインドマップにまとめました。

幸せになる勇気では「教育」と「」にフォーカスがあてられています。

親が読むといろいろ考えることが多いのではないかなという印象を受けました。

嫌われる勇気でも教育や愛については触れられていましたがより深く解説されています。

この記事では年間100冊の本を読む僕が「幸せになる勇気」を読んで重要だと思った部分をまとめています。

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教育

叱ってはいけない、ほめてもいけない

アドラー心理学では賞罰を禁じています。よって、叱ってはいけない、ほめてもいけない、と断じます。子どもが良くないことをしたとき「それが良くないことだと知らなかった」という可能性があります。

たとえば、小さいころ虫めがねを使って色々なものをのぞき込むと違った世界が見えることに気づいて子どもが夢中になっていたとします。ところがしばらくして、虫めがねのまったく違った用途を知ります。なんと、黒い紙に光の焦点を合わせると、紙から煙が上がり、やがて燃え始めることに気づきます。

黒い紙を燃やすことに飽きてきた子どもが大きな蟻を見つけます。虫めがねを使って「黒い」蟻に子どもがどういう行動を起こすか…想像できますよね。

子どもはフロイトのいう「攻撃欲動」を持っていたから残酷な行動をしたのでしょうか?

おそらく、そうではないのです。ただ、「知らない」のです。命の価値を、そして他者の痛みを。

知らないのであれば大人たちがとる行動は一つです。教える、ことだけです。教えるときに、叱責の言葉はいらないのです。

ここで、確信犯として問題行動を起こしている子どももたくさんいるという反論があるでしょう。でも、不思議ではないですか?「よくないこと」だと知っているだけでなく、それをすれば親や教師から叱られるとわかった上で、問題行動に出ている。これはあまりに非合理的です。

これを考えるときに、現代アドラー心理学では、人間の問題行動について、その背後に働く心理を5つの段階に分けて考えています。

問題行動の第一段階「称賛の欲求」から考えていきましょう。

称賛の欲求とは、親や教師に向けて「いい子」を演じる。上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールすることです。

これは一見するといい傾向に思えます。誰にも迷惑をかけず、生産的な活動に取り組むことになるからです。

しかし、ここには大きな落とし穴があるとアドラーはいいます。「いい子」や「優等生」の目的が、あくまで「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」ということが問題です。

彼らは、「いいこと」をしているのではなく、ただ「ほめられること」をしているだけなのです。

そして、「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」し、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」とういうライフスタイル(世界観)を身につけてしまうのです。

この考え方がカンニングや偽装工作につながります。

ではどのような対応がいいのでしょうか?

「特別」でなくても価値があることを「尊敬」を示すことによって教えていくことが大切なのです。

具体的には「いいこと」をしたときに注目するのではなく、もっと日頃の些細な言動に目を向ける。「関心事」に注目し、共感する。このことが大切だとアドラーは言います。

問題行動の第二段階は「注目喚起」です。

「いいこと」をしたのにほめられない。「ほめられること」をやり遂げるだけの勇気や根気がない。そういうとき、人は「ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考えます。

この子たちの目的は自らが所属する共同体のなかに、確固たる「居場所」を獲得することです。

学業みたいな正攻法でうまくいかない子は別の手段で「特別なわたし」になろうとします。「いい子」ではなく「わるい子」としてかなえるのです。

積極的な子どもは「いたずら」によって、注目を得ようとします。授業中に騒いだり、教師をからかったり、しつこく食い下がったりします。逆鱗に触れるところまでは踏み込まず、道化的な人気者として愛されることもあります。

一方、消極的な子どもたちは、学力の著しい低下を示したり、忘れ物を繰り返したり、泣いたりすることで注目を集めようとします。「できない子」として振る舞うことで注目を集め、特別な地位を得ようとするわけです。

たとえ叱られるというかたちであっても、存在を認め、特別な地位においてほしいというのが彼らの願いです。

このような子たちにも第一段階と同じように「尊敬」によって、特別である必要はない。そのままで十分価値があるのだと伝えていくことが大切になります。

問題行動の第三段階は「権力争い」です。

この段階では、誰にも従わず、挑戦を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することで「力」を誇示しようとします。

これらを一言で表すと「反抗」です。

親や教師を、口汚い言葉で罵って挑発する。癇癪を起して暴れたり、万引きや喫煙に走るなど、ルールを破ります。

一方、消極的な子どもたちは「不従順」によって、権力争いを挑んできます。どんなに叱られても勉強や習いごとを拒絶する。大人の言葉に無視を決め込む。ただ不従順を貫くことによって、自らの「力」を証明したいのです。

ここで、多くの教師や親が怒りのラケットを手に取り、叱責というボールを打ち返します

これは相手と同じコートに立つことであり、彼らは次なる反抗のボールを打ち返してきます。ここでラリーが始まってしまいます。

法に触れる問題であれば、法に従った対処が必要です。しかし、それ以外の権力争いを察知したら、すぐに彼らのコートから退場することが大切です。

問題行動の第四段階は「復讐」です。

意を決して権力争いを挑んだのに、歯が立たない。勝利を収められず、特権的な地位を得ることもできない。相手にされず、敗北してしまう。そして敗北したものは、いったん引き下がった後に「復讐」を画策します。

かけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人に、愛の復讐をするのです。

称賛の欲求、注目喚起、権力争い。これらはすべて「もっとわたしを尊重してほしい」という、愛を乞う気持ちの表れです。ところが、愛の希求がかなわないと知ったとき、人は「憎しみ」を求めるのです。憎悪という感情でもいいから私に注目してくれ。と考えるようになるのです。

「権力争い」の段階にある子どもたちは、正面から堂々と戦いを挑んできます。

一方、復讐の段階に入った子どもたちは、正面きって戦うことを選びません。彼らはひたすら「相手が嫌がること」を繰り返します。

具体的にはストーカー行為などは典型的な復讐です。ストーカーとなる人は相手が嫌がっていること、良好な関係に発展しないことを理解しています。それでも「憎悪」や「嫌悪」によって、なんとかつながろうと画策するのです。

また、自傷行為や引きこもりも、アドラー心理学では「復讐」の一環なのだと考えます。自らを傷つけ「こんな自分になってしまったのは、お前のせいだ」と訴えるのです。当然、親は心配し、胸を引き裂かれるような思いに駆られます。子どもにしてみれば、復讐が成功していることになります。

ここまできてしまったら当事者にはなにもできません。彼らの目的は「あなたへの復讐」です。あなたが助けようとすればするほど復讐の機会がきたとばかりに言動をエスカレートさせます。こうなったら、利害関係のない、まったくの第三者に助けを求めるしかありません。

問題行動の第五段階は「無能の証明」です。

ここで、自分自身に置き換えて考えてみてください。

「特別な存在」として扱われようと、さまざまな策を講じてきたものの、どれもうまくいかない。親も教師も級友も、憎むことさえしてくれない。学級にも家庭にも「居場所」を見つけられない

このとき、あなたならどうしますか?

もう放っておいてくれ。と思うでしょう。

この「これ以上わたしに期待しないでくれ」という思いが「無能の証明」につながります。

周囲に対して「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになります。

課題に取り組んで失敗するくらいなら「できるはずがない」と最初からあきらめたほうが楽なのです。

この段階の子どもたちは専門家に頼るしかありません。

 

この五段階の問題行動のうち大半は第三段階の「権力争い」にとどまっています。そこから先に踏み込ませないためにも親や教育者の役割が大切なのです。

「ほめて伸ばす」を否定せよ

アドラー心理学ではほめることを否定します。なぜなら「ほめることは“能力のある人が、能力のない人に下す評価”であり、その目的は“操作”である」からです。

しかし、教育現場では、ほめたら喜び、伸びる子どもがいることは事実です。

それでも、なぜ「ほめてはいけない」という原則をつらぬくのでしょうか?

それは、共同体が、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになるからです。

これにより、「他者はすべて的なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけることになります。

ライバルの存在は励みになることはたしかです。しかし、そのライバルと競争する必要はなく、競争してはいけないのです。

矛盾しているように感じるかもしれませんがそうではないのです。
強さや順位を競い合う競争原理は、「縦の関係」に行きつきます。勝者と敗者が生まれて上下関係が生まれるからです。
一方、アドラー心理学の提唱する「横の関係」を貫くのは、協力原理です。だれとも競争せず勝ち負けもない。すべての人は対等であり、他者と協力することこそ共同体を作る意味がある。と考えるのです。

アドラー心理学は、横の関係に基づく「民主主義の心理学」なのです。

ふたりで成し遂げる課題

アドラーは言います。「われわれは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは20人で成し遂げる仕事については、教育を受けている。しかし、二人で成し遂げる課題については、教育を受けていない」と。

「ひとりで成し遂げる課題」とは、赤ん坊が二本足で立ち、歩き回れるようになること。哲学、数学、物理学といった学問全般のことです。

これに対して仕事は「仲間たちと成し遂げる課題」です。

この「ひとりで成し遂げる課題」と「仲間たちと成し遂げる課題」については家庭や学校で教育を受けています。

しかし、「ふたりで成し遂げる課題」についてはなんの教育も受けていません。その「ふたりで成し遂げる課題」が愛です。

そして、ふたりで成し遂げることが幸福です。

アドラーは「わたしは誰かの役に立っている」という、貢献感があればみずからの価値を実感できると言います。そして、貢献感のなかに、幸せを見出そう貢献感のなかに、喜びを見出そう。と提唱します。

人生の主語を「わたしたち」に変えることを提唱しています。「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして「わたしたち」を掲げています。

「わたし」の幸せを優先させず、「あなた」の幸せだけに満足しない。「わたしたち」のふたりが幸せでなければ意味がない。「ふたりで成し遂げる課題」とはそういうことです。

愛とは「決断」である

フロムはこんな言葉を残しています。「誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である」と。

たとえば、相手の好意をなんとなく察知した瞬間、その人が気になり、やがて好きになっていく。こういうことはよくありますね?

これは「愛される保証」が確保できた状態です。

しかし、フロムの語る「愛すること」は、そのような担保をいっさい設けません。相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしに、ただ愛するのです

課題の分離です。愛することはあなたの課題です。しかし、相手があなたの愛にどう応えるか。これは他者の課題であって、あなたにはコントロールできません。

まとめ

「幸せになる勇気」では「嫌われる勇気」で解説されていた「教育」と「愛」の部分を深く掘り下げています。大学生で日常から「教育」とか「愛」について考えることはないのでこの本を読んで考えるいい機会になりました。

僕の考えとしてはアドラー心理学がすべて正しいというわけではない。けれど、納得できる部分が多いので自分がアドラーの教えで納得できる部分を使っていこうと思ってます。

最後に課題は分離されているという前提のもとでアドバイスが書かれています。

愛し、自立し、人生を選べ」と。

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