連絡を取ったり、レポートを書いたり、ブログを書いたり、SNSで情報発信をしたりと文章を書くことは、日常生活の一部となっています。
僕はブログを書き始めたので文章を相手に伝わりやすく書く方法が知りたくなりました。
医学部で先生に提出するレポートはわかりやすく書くことよりも正確に書くことを求められます。
『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を書いた古賀史健さんは『嫌われる勇気』を書いたライターさんです。どういうことに意識して文章を書くことで人に伝わる文章を書けるか詳しく解説されています。
読んでみて重要だなと思った部分を要約しました。
本に興味はあったけど買うか迷っていたという人はこの記事を読んでどのようなことが書いてあるか確かめてみてください。
誰かになにかを伝えたい、つながりたいと思うからこそ、「翻訳」が必要
僕たちは本を読むときや映画を見るとき「あー、面白かった」と思えればそれでいいです。
それ以上の気持ちをわざわざ誰かに説明する必要もないし、登場人物の名前を忘れてもとくに問題はありません。
しかし、読書感想文を書くとなったらどうでしょうか?だれしも一度は夏休みや冬休みの宿題で読書感想文をかいたことがありますよね。
読書感想文で
「夏目漱石の『坊っちゃん』を読みました。面白かったです。」
と書いても宿題は終わりませんでしたよね。
つまり、読書感想文を書くとき、『坊っちゃん』を読んだことがない人にもわかるように、面白さを説明する必要があります。これが「翻訳」という作業です。
たとえば『坊っちゃん』はどのようなストーリ―だったのか。
どんな登場人物がいて、それぞれどんな関係なのか。
読者である自分は、物語のどこに「面白さ」を感じたのか。そして、なぜそこに「面白さ」を感じたのか。
感想文を書くとき、このようにして、物語の内容、魅力、ポイント、欠点など、あらゆることを自分の頭の中で整理・再構築する必要があります。そして、整理・再構築をして初めてアウトプットできるのです。
では、どうすれば「翻訳」をできるのでしょうか?
聞いた話を誰かに話すことが「翻訳」の第一歩です。
話すことによって得られるものとして以下のものを挙げています。
誰かに「自分の言葉で」話すことによって、バラバラになった内容を再構築し、理解を深めることができます。
友達に相談したり、質問している途中で、解決した経験をある人が多いと思います。これは頭のごちゃごちゃした部分が整理されて再構築されていた結果なのです。
同じ説明を何度聞いても理解できないことはあると思います。
でも、説明している人と同じ立場に立たされることになるとその人が言いたかったことが分かるようになります。
自分で翻訳することで話し手の真意がつかみやすくなるのです。
僕たちは、「翻訳」するとき、自分が対象のどの部分にピントを合わせているのかを知ることができます。
たとえば、ドラマやアニメを見たことがあるひとと話したとき、一番面白かったのが第何話だったのか、どのシーンだったのかは人それぞれだと思います。
また、野球選手のイチローの話をするにしても、バッティングのフォームにピントを合わせる人もいれば、守備にピントを合わせる人もいるかもしれないし、記録にピントを合わせる人もいるかもしれません。
このように、どこにピントを合わせるかはその人の自由であり個性なのです。これが再認識です。
日常生活でも「聞いた話を、誰かに話す」ことは誰もが行っていることです。
今後、「再構築」「再発見」「再認識」の3つを頭にいれながら、聞いた話を人に話すように意識することで一文字も書かないで、文章の練習ができます。
「視覚的リズム」を考える
「文章のリズムが大切です。」ということを聞いたことがある人は多いと思います。しかし、そのリズムをどう作るのかについて説明されていないことが多いです。
この本ではこのリズムについて説明されています。
視覚的リズムとは、文字や句読点が並んだときの、見た目の気持ちよさのことです。
本屋さんで本を開いた瞬間、ネットのブログ記事を見た瞬間、受け取ったLINEをみた瞬間。この一瞬で読者は「なんか読みやすそう」「なんか読みづらそう」をはんだんしているのです。
「視覚的リズム」は次の3つによって生まれます。
句読点の最大の役割は、半文字ほどのスペースを作って見た目の圧迫感をなくすことです。だらだら長い文章を読むことが苦痛であることは納得していただけると思います。
一方、読点「、」の役割は文意を明確にすることにあると考えられます。
A:彼が、疲れた表情で電車を待つ彼女に声をかけた
B:彼が疲れた表情で、電車を待つ彼女に声をかけた
Aでは疲れた表情をしているのは「彼女」です。それに対して。Bでは「彼」が疲れた表情をしています。
もしも、読点を入れないで「彼が疲れた表情で電車を待つ彼女に声をかけた」と書いていたら読者を混乱させてしまいます。
横書きの文章において、句読点は「文字間=横」の圧迫感を解消するために有効です。
それに対して改行には、「行間=縦」の圧迫感を解消する役割があります。
改行がなく文章がびっしり詰まっていると読みにくいことは明らかです。
さらに、改行には伝えたいメッセージを強調する役割もあります。
10行も20行もある文章を見たとき、たいていの人はうんざりします。ましてやそれが会議の資料や事務連絡だったら、特に流し読みされてしまいます。では、どうすれば強調したい部分を伝えられのでしょうか?
改行するのです。
改行してしまえばいやでも目に留まります。
①「句読点」②「改行」のどちらの説明にも当てはまるものとして、「圧迫感」があります。
視覚的なリズムを邪魔するものとは、圧迫感なのです。
そして、日本語には、どんなに句読点を使いこなして、どれだけ改行してもどうしても避けられない圧迫感があります。
文字そのものが持つ圧迫感です。
パソコンやスマホで文章を書くことが多くなった現代では「かけない漢字」まで書けてしまいます。
「薔薇」「麒麟」「憂鬱」などの漢字は、手書きでは書けないひとが多いと思います。
画数の多いこのような漢字があると見た目が黒に近づきます。見た目の黒さ、ごちゃごちゃ感は、圧迫感につながってしまいます。
では、逆にひらがなだらけの文章にすれば圧迫感が亡くなるのでしょうか?
答えは「ノー」です。
ひらがなにはひらがなの圧迫感があります。ひらがなが連続しすぎるとどこで切ったらいいのか分からなくなります。
このように、ひらがなだけでこうせいされているぶんしょうをよむことは、やさしいようにおもえるかもしれませんが、じつはぜんぜんやさしくないのです。ひらがなにはひらがなのあっぱくかんがあるのです。ここまでよんでくれたぶんしょうにくらべたら、わずかすうぎょうのこのだんらくをよむことがつらいとおもうひとがたいはんだとおもいます。
これらから分かるように「漢字とひらがな」のバランスが大事なのです。
論理的文章で主張を明確にする
自らの主張がたしかな理由によって裏打ちされたとき、「論理的な文書」だといえるのです。
この論理的文章の構成はマトリョーシカに似ています。
この3層構造が守られているのが、論理的文章なのです。
文章を読むとき読者は必ず「この人はなにが言いたいのだろう?」と考えながら読んでいます。主張が明確になっていないと文章全体が読みにくくなってしまします。
書き手の主張が入っていない文章を読んでも読者からは「だからどうした」「そんなこと知っているよ」以外の感想は出てきません。
文章を書くとき言いたいことに対して「ひと言」で答えること、を読者に求められているのです。
主張を「論理的なもの=理にかなったもの」とするには、ここに「理由」という第二のマトリョーシカと「事実」という第三のマトリョーシカが必要になります。
このとき、「理由」または「事実」どちらかが抜け落ちた文章にならないように注意しなければいけません。
言いたいことはわからなくはないがこの文章に納得できる人はいないと思います。
というのも、「経済的支援を導入すべき」という主張と、「フランスやスウェーデンで経済支援をしている」という事実をつなぐ「理由」が欠けているからです。
この例からもわかるように、「理由」をいれないで、主張と事実だけで構成しようとしても、詰めの甘い文章になってしまいます。
ここでは「事実→主張→理由」の順で構成されています。こちらのほうがスムーズになります。
重要なことは、自分の文章のなかに、「主張」「理由」「事実」の3つがあるか、そしてその3つはしっかり連動しているかということです。
文章の先の「読者」と同じ椅子に座る
アマチュアだろうとプロだろうと、メールだろうと小説だろうと、どんな文章でもその先にはそれを読む読者がいます。
一生誰にも見せない日記にも読者がいます。それは未来の自分という読者です。たとえ、読み返すことがなかったとしても、いまの自分に向けて書かれているはずです。
しかし、文章を書くにあたって、読者の存在を意識しない人は多いです。相手の立場に立って考えろ、とはよく言われます。しかし、これではまだ足りないのです。
本当に必要なことは、隣に立つことではなく、読者と同じ椅子に「座ること」なのです。
読者の椅子に座るとはそういうことなのでしょうか?
たとえば、猫を飼ったことがない人が「猫好きの読者に向けて、猫と暮らす楽しさについて共感を誘う文章」を書くことは難しいですよね。また、「大学を辞めてフリーランスになろうか悩んでいる人に向けての文章」をそんなことを考えたことがない人が書くことは難しいです。
その立場になったことがない人は、表面を取り繕った文章を書けても、読者の心を動かす文章は書けません。
結局、僕たちが本当の意味でその「椅子」に座れる読者は、この世に2人しかいないようです。
この10年前というのは便宜上の数字で、半年前でも20年前でもかまいません。とにかく「あのとき」の自分に向けて書くのです。
現在のあなたは、ある情報を手に入れてる。知識や経験などの有益な情報です。
そして、有益な情報とは、「もしこれを10年前に知っていたら!!」と思わせるものです。10年前に知っていたら、苦しい思いをせずにすんだかもしれない、悩まずにすんだかもしれない。
もし、そんな思いがあるなら「10年前の自分」の椅子に座ればいいのです。「10年前の自分」に語りかけるようにすれば、どんな言葉を嫌い、どんな言葉に耳を傾け、どう伝えれば納得してくれるのか。すべてが分かるはずです。
毎月何万もの読者がアクセスをするような、人気ブログを書きたい人がいるとします。すると、「多数派の罠」にはまってしまう可能性があります。
アクセス数を意識しすぎるブロガーたちは、よりたくさんの人に受け入れてもらえるよう心掛けます。
すると、文章は、途端に保守的で刺激のない、八方美人な姿になってしまいます。
しかし、そんなブログが本当に面白いでしょうか?
人気ブロガーのブログは、批判を辞さない覚悟で自分の「主張」を述べていますよね。
そこで、八方美人にならないために必要なのが、「たったひとりの“あの人”を思い浮かべて書く」という意識です。
僕たちは、絶対に何千人、何万人の椅子に座ることはできません。だったらいっそ特定の「あの人」の椅子に座ることが大切になってくるのです。
特定の「あの人」を極端な範囲に絞ることで、言葉のベクトルがはっきりするため、「その他の人々」にも届きやすくなるのです。
まとめ
「20歳の自分に受けさせたい文章講義」では、一生使える知識が書かれています。
筆者の古賀史健さんがライター生活で、なにを発見したのかが出し惜しみせず、包み隠さず書かれています。この本を読むことで文章を書いて文章をかくことの本当に大切な幹となる部分を学べました。
とにかく書こうというメッセージがこの本の最後に書かれています。ここまで、読んでくださった皆さん、とにかく書いて書くことで答えを探していきましょう!